2009年7月24日
クレオパトラ混乱と骨肉の争い
クレオパトラの誕生以前よりプトレマイオス朝は権力を巡る骨肉の争いが常態化しており、実際に紀元前55年(クレオパトラ14歳)には父(プトレマイオス12世)と姉(ベレニケ4世)が王位を巡って争い、ローマの支援も得て勝利した父王がベレニケを処刑したようにエジプト国内は安定には程遠い情勢であった。
紀元前51年、クレオパトラが18歳の時にプトレマイオス12世は死去したが、父王の遺言及びプトレマイオス朝の慣例に則って、兄弟で最も年長であったクレオパトラが弟・プトレマイオス13世と結婚し、共同で王位(ファラオ)に就いた。
弟王との共同統治は弟王の側近の介入もあって当初より齟齬が生じていたので、ローマの支持を必要としていた。ローマでは、カエサルとポンペイウスが対立していたが、クレオパトラは父王の関係から、ポンペイウス派に与していた。ポンペイウスの子グナエウス・ポンペイウスがアレクサンドリアを訪れ、クレオパトラに兵員と食料の協力を要請した。女王は、この小ポンペイウスに対し、予想を上回る兵員及び食料を提供した。この際、クレオパトラは小ポンペイウスの愛人となった。 しかし紀元前48年の春、これらクレオパトラの動きに不信を募らせたプトレマイオス派はアレクサンドリア住民がクレオパトラに対して起した反乱に乗じてクーデターを実行し、クレオパトラを東部国境のペルシオンへと追いやった。
クレオパトラ7世は、嫡子のいないカエサルの後継者にカエサリオンを望んでいたと思われるが、カエサルは、庶子に当たるカエサリオンを後継者に指名してはいなかった。紀元前46年、既にカエサルは遠縁の養子ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスを後継者と定め、遺言書を遺していた。
クレオパトラ7世がエジプトに帰国したころ、名目上の共同統治者であったプトレマイオス14世が死亡すると(死因不明、クレオパトラによる毒殺説もある)、クレオパトラは、幼いカエサリオンを共同統治者に指名した(プトレマイオス15世)。
紀元前42年、クレオパトラは、フィリッピの戦いで、三頭政治側ではなく、マルクス・ユニウス・ブルートゥスら共和派を支援した。共和派の敗北にともない、三頭政治側のマルクス・アントニウスはクレオパトラに出頭を命じた。これに対して、クレオパトラはアプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくってタルソスへ出頭した。逆にアントニウスを自らの宴席へ招待するなどし、瞬く間にアントニウスを魅惑したといわれる。アントニウスはエジプトに近いシリアなどの東方地域では勢力を維持しており、クレオパトラと良い関係を作ることは、アントニウスにとって好都合であったことは事実である。 他方、アルシノエは小アジアのエフェソスにあるアルテミス神殿に聖域逃避していたが、クレオパトラは、アントニウスに頼んで殺害させた。
その後、2人の間には紀元前39年に双子の男女のアレクサンドロス・ヘリオスと、クレオパトラ・セレネ、紀元前36年には、もう一人の男の子プトレマイオス・フィラデルフォスが誕生した。アントニウスはエジプトと同盟したが、パルティア遠征で惨敗を喫したあと、オクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚した。クレオパトラとアントニウスは結婚したのかもしれない。アントニウスは、再度東方遠征を試みる。今度のアルメニア遠征では凱旋してエジプトのアレクサンドリアに戻り、そこで凱旋式を挙行した。さらに、エジプトに埋葬されることを望むなど(アントニウスが書いたとされる遺言状をオクタウィアヌスが元老院で読みあげたもので、真偽は定かではない)、ローマを見捨てたかのように振舞うアントニウスにローマ市民は失望し、アントニウスとの決戦を望んでいたオクタウィアヌスを強く支持するようになった。最終的にオクタウィアヌスがアントニウスに宣戦布告したとき、それは私闘ではなく「ローマ対エジプト」の構図になっていた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
クレオパトラ7世はその美貌と色香で男性を翻弄したようです。うらやましい限りです。
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